国立研究開発法人 理化学研究所主任研究員 金 有洙
人間そのものがエネルギーの塊であることもあり、人類の歴史はエネルギー獲得の歴史とも言えます。自然を主なエネルギー源とした人類は、耕作により余剰エネルギーを蓄積することが可能になり、それを管理するために国家が生まれ、より多くのエネルギー源を確保するために戦争を起こしてきました。18世紀の産業革命をきっかけに化石燃料が主なエネルギー源となり、より効率の良いエネルギー変換を体系的に研究するための科学技術が発展してきました。昨今、地球規模の環境問題や現在世代と未来世代間のエネルギー共有の観点から、「持続可能な社会」を成し遂げるためのエネルギー変換技術の開発は人類の運命を左右する死活問題になっています。
本講演では、様々なエネルギー変換デバイスやシステムにおけるもっとも重要なコンポーネンツの一つである、「分子界面」におけるエネルギー移動・変換・散逸過程を詳細に調べるための単分子分光手法の開発についての研究紹介を行いました。固体表面上に吸着した分子における量子状態の励起とそれに伴うエネルギーの変換・移動・散逸過程は、反応・拡散・脱離などの表面ダイナミクスや発光・光電変換・光触媒反応などのエネルギー変換プロセスを理解すための重要な素過程であります。走査トンネル顕微鏡(STM: Scanning Tunneling Microscope)は、原子レベルの空間分解能で表面を観察できる優れたプローブであるとともに、探針からのトンネル電子によって個々の分子の量子状態を励起することができる局所励起源でもあります。我々の研究では、STM探針から注入された電子のエネルギーに対する分子の応答(電気伝導の変化、化学反応、発光)を精密に測定し、スペクトルに現れる量子状態を検出し、単分子で行われるエネルギー移動・変換・散逸過程を明らかにします。
STMとSTMに基づいた分光手法に関する概略的な説明を行い、次に金属表面における単分子の局所電子状態を介したトンネル電子の移動とそれに伴う分子の励起について説明しました。励起された分子が示す化学反応や表面運動の効率を定量的に計測することにより、どのような量子状態がそれぞれの反応や運動を支配するのかに関する情報が得られ、分子におけるエネルギーの動的過程を理解することができます。
有機発光素子や有機太陽電池など、有機半導体分子を利用したエネルギー変換デバイスにおいても分子界面はエネルギー変換のための格好の場を提供します。分子のエネルギー変換特性を調べるためによく使われる発光分光法や吸収分光法などの従来の分光技術では回折限界を克服できず、数十 nmより小さい微細構造や単一分子の光学特性を調べることが困難でした。しかし、STMをそれらの分光技術に組み合わせることにより、「ナノの光」 とも呼ばれる局在プラズモンと分子の相互作用を利用した単一分子の発光・吸収特性計測が可能になることを示し、新しいタイプの単一分子発光・吸収分光が可能であることを実証しました。さらに、開発した単一分子発光・吸収分光法を用いて、お互いに離れている異なる2分子間のエネルギー移動の様子を可視化することに成功し、エネルギー移動の機構が共鳴エネルギー移動であることを説明しました。
最後に、我々が現在取り組んでいるほかの新しい単一分子分光手法を簡単に紹介し、極限の空間分解能を持った分光手法を開発することにより、分子のエネルギー利用に関する根本原理を理解するための実験的接近が可能になったことを示しました。さらに、これらの新しい計測手法をより得られた情報に基づくより深い理解を得るための計算科学との連携や、より多様な物質系に適用するために材料科学との強い連携が必要であることを述べ、講演を終了しました。